あなたの「戦争」のイメージって何ですか? 私が今まで「戦争」について持っていたイメージは… とても怖いものでした。(当たり前だよね) でも今まであまり人と語り合う という事が出来なかったのです。 今日は私の胸中を告白してしまいます。
戦争っていうものがあった ということに気が付いたのは 私が5歳の頃に出かけた
平塚七夕祭りでの出来事でした。
七夕の華やいだ雰囲気と
路上に埋め尽くされた人々。
立ち並ぶ屋台から漂う匂いに包まれ
にぎやかなお祭りの最中に
マイナーノートの哀愁漂う アコーディオンの音色が…
そこには、
頭をうな垂れた
手足のない人達が
何かを訴えていました。
とにかく怖くて…
彼らの前を通り過ぎる時も
じっと見つめたという記憶はありません。
なので良く知りませんでした。
彼らは
「傷痍軍人ーしょういぐんじん」
と呼ばれているそうですが
この言葉ご存知でしたか?
私は「しょうい」という日本語すら
このブログを書こうと思うまで、
全く知りませんでした。
ごめんなさい💦
両親からも
「見ちゃだめよ!」と言われていました。
見ない様にしていたって
小学生になる頃には
平塚市の博物館で
「 平和普及展」という展示会が
毎年行われます。
学校の行事として足を運ぶ機会もありました。
しかし私は
「戦争の傷跡」を見ることを
極力避けてきました。
…避けていたって見えてくる戦争の実態
ガラスのうさぎ
はだしのゲン
あまりにもインパクトが強いこれらの作品も、 全く記憶に残っていない程に 「戦争」について封印していた気がします。 戦争は 絶対に反対!
なのに
高校卒業後に入隊した自衛隊。 かなり矛盾しているように思えますよね? 何故私が自衛隊へ入隊することを選んだのかというと、
あれは私の辛い経験を乗り越えるための砦だったのです。
17歳で高校の教員により
性的な虐待を受けた私。
学校への反抗心を示すためなのか、
私は頑なに進学を拒みました。
そこで考えて考えて… 考え抜いた先にあった疑問
「衣食住を心配せずに
両親のサポート無しで
自立した生活を送れるところとは?」
自衛隊に入隊するということは
お給料もボーナスも良い
入隊の試験は簡単だし
身体検査も普通に生活出来れば問題なし。
後は後々の駐屯地の事を考えて
陸海空のどこへ入隊するか?
地元に一番近い教育隊がある場所は
海上自衛隊。
単刀直入なのですが、
そんな訳で私は高校2年生の時に
既に卒業後の進路を決めた訳です。
そんな訳で私は高校2年生の時
既に卒業後の進路を決めた訳です。
入隊後は色々とあり(笑)
これもすごい話ですので、いつかご紹介します。
その後アメリカ海軍兵と結婚。
United States Army Garrison Yongsan
(米国陸軍龍山基地)近くの 梨泰院 に
移住したのですが、
ソウルの地下鉄駅付近で
物乞い?をしている風景を 目の当たりにしました。
現代にまだいるのと
信じられない方もいらっしゃると思いますので、
家族と一緒に1週間ほど行きました。 滞在先に選んだのは まるでプライベートビーチがあるかのように ロッジの目の前には美しい海が広がる Bellows Air Force Base の ロッジ
このロッジのフロントデスクの傍に
第二次世界大戦中に真珠湾攻撃の頃に
日本兵が上陸していたという写真が飾ってありました。
(調べてみましたが、情報は出てきませんでした)
そして…
家族でアリゾナ記念館に足を運んだのは
偶然なのか、必然なのか、
真珠湾攻撃からちょうど62年後の12月7日。
アリゾナ記念館って何?って方のために…
1941年12月7日(ハワイ時間)に発生した
大日本帝国海軍による真珠湾攻撃でにより
乗組員1177名のうち1102名が死亡し
撃沈された戦艦アリゾナ
及びその乗組員を追悼するとともに、
真珠湾攻撃自体を記念する施設です。
そう…
真珠湾攻撃のあった場所に私は足を運んだのです。
そして62年経ったその時も
「アリゾナの涙」と呼ばれる
油が海面へと浮かんでは消えていきました。
私はこの海面に浮かんでくる虹色の重油を眺めながら
自分自身に投影しながら考え込みました。
「3日後に私は日本国籍を失い、アメリカ国籍を取得する…」
私は…
この海面下に沈んでいる
アメリカ兵なのか?
それとも上空の澄み渡った青空から攻撃を仕掛けた
日本からの特攻隊なのか?
アメリカ人であろうと
日本人であろうと
何人であろうと…
「戦争」という悲劇の中で生きた命。
そして国の為にと自分の命をも犠牲にして
戦い続けた魂は
一体私に何を訴えてくれるのだろう?
重たい心を引きずるように
私はアリゾナ記念館を後にしました。
アメリカでは、
退役軍人(復員軍人)の日
というのが 毎年11月11日にあり
戦争で傷ついた軍人の方たちには
パープルハート章 【名誉戦傷(死)章】
(右の写真) が授与されます。
そしてアメリカという国には 現在も紛争地域に
派遣されている方が多くいます。
なんと、派遣期間が終わって帰国しても
1年もしないうちに次のミッションに携わり
家族と離れ、紛争地域へと戻っていく人も沢山います。
Disabled Veteransが
数多くいる事からも 日本の様に 退役軍人の方を社会全体が 目を背ける様な風習は全くなく、 毎年国全体が
彼らに畏敬の念を心から捧げる日となっています。 そんな風に感じられたのも、 私が軍関係の仕事に従事したり、 基地周辺での生活を長年続けてきたからかもしれません。
私の故郷 平塚は、空襲被害を受けた街です。 そして私が19歳で結婚した相手と出逢った地は 横須賀。
元夫は、在日米軍横須賀海軍基地に勤めていました。 補足:ここからの詳細を知りたい方は、 Wikipediaのリンクをいっぱい張りましたのでお読み下さいね!(笑) 現在は米海軍の基地である横須賀ですが ここは元々は 横須賀海軍工廠の跡地でした。 横須賀の他にも工場があり、 分工場がなんと平塚にあったそうです。 平塚の空襲のターゲットは ・横須賀海軍工廠造機部平塚分工場 ・日本国際航空工業(現在の日産車体本社工場・第一地区周辺) ・海軍火薬廠(現在の横浜ゴム平塚製造所)
・第二海軍航空廠補給部平塚補給工場(現在のJT平塚工場周辺) そして1945年7月16日から17日 にかけて 空襲が起こり 花水川河口へ照明弾が投下されました。 B29爆撃機133機から 投弾された焼夷弾は 全部で41万2961本だそうです。 平和普及展「平塚空襲パネル展」参照 平塚の空襲被害について知りたい方は NHKのMIRAIMAGINEの↓をどうぞ。 “42万発の焼い弾” 降り注いだ町 調べていくと更に繋がりが… 私の父は、1945年9月生まれなので もうずいぶん前に定年退職をしましたが 日産車体本社工場の第一地区で長年仕事をしていました。 今、私がここに記載したことがダダダダと繋がった きっかけがあります。 …戦争は記憶の遥か彼方にあった 2019年8月17日の土曜日。 私は娘を連れて伊勢原の図書館に 借りていた絵本を返しに出かけました。 すると、図書館に向かう途中で
女性が笑顔で私達に話しかけてきました。 この方は、 おはなしばる~んという団体の方でした。 「平和をねがうおはなし会をやっていますので 是非来て下さい」と娘にチラシを渡して下さいました。
私は
伊勢原でもこの時期に平和活動があるんだね~
と思いつつ、
娘にお話会に行きたいかを尋ねると
なんと!
行きたいという返事が。
そんな訳で早速参加してみました。
丁度お昼直前の時間帯だということもあり、 参加者はほぼ居ない状態。 その中で紙芝居を見て、 展示されている平和に関する絵本を何冊か読み、 その場を離れようとすると 今度は男性から声をかけられました。 彼は、光のシンフォニー伊勢原の方で 平和のメッセージの よせがきコーナーというのがあるので あなたの平和のメッセージを書いてくれますか? と言われたので 「勿論です」と答えました。 そして私と娘はペンを一緒に持ち、 私の息子(娘の兄)の住んでいるアメリカを選び 「アメリカが平和でありますように」
と書きました。 私達が書いている様子の写真は無いので こちらから写真をお借りしました。 「下に薄く文字が書かれているために、 外国の方でも書けるんですよ~!」 と仰っていました。 確かに! 日本語が書けなくても なぞる事は出来るもんね~。
そしてその隣では、 いせはら市民平和実行委員会による いせはら市民平和展では 戦争関連の資料や写真が展示されていました。
私が参加していた時間帯の事しか言えませんが、
いらっしゃる方々は年配の方ばかりでした。
そして一人の主催者の方が
幼い私の娘をみて
「まだちっちゃいから分からないよね~」と一言。
その時に
「多分私達の様に言語を駆使して話すことは出来なくても、 この子はこの子なりに理解していると思います」 とお伝えました。 そして娘と一緒に、 原爆ドームの写真や原爆被害について 私は初めて本物の「赤紙(召集令状)」を見ました… 自分が受け取った訳ではないのに 何とも言えない複雑な気持ちになりました。 パネルの展示では、 日本の戦争についてだけではなく 世界の紛争についての紹介もされていました。
その写真などを見ながら、
5歳の娘に分かるように努めて説明をしました。
午後は図書館と科学博物館で気が済むまで遊んで帰ると…
娘は家に帰ってきた途端に絵を描きました。
ノートに鉛筆で、原爆ドームと爆弾と死んだ人でした。
余程インパクトが強かったのでしょう。
その後ももう一度絵を描きたいと言ったので
今度はクレヨンで描いてもらいました。
燃え盛る原爆ドーム 爆弾に きのこ雲 建物の隣に横たわる死人… 絵を描いた後も色々と質問をしてきました。 そして私は娘に広島の原爆についての動画を何本か見せながら
こんな事を伝えました。
1. アメリカが爆弾を投下したこと 2. 原爆の規模が甚大だったこと 3. 沢山の命が奪われ、家族がばらばらになったこと 4. 全てが一瞬で破壊されたこと 5. 世界には今もまだ紛争地域があること
これらを分かりやすく伝えました。 きっとショックだったと思います。 母親や兄の国籍があるアメリカが 何故爆弾を落としたの?と聞かれました。 私はその頃、アメリカと日本はケンカしちゃってたんだよ。 他にも沢山の国がケンカしていてとっても大変だったの。 と伝えました。 「どうして?」 どうしてなんでしょう? なぜ戦争になってしまったんでしょう? 簡単に答えられるものではありませんね。 「みんなが仲良くすればいいのに」 と5歳児は語ります。 そんな彼らの純粋な期待に応えられる大人でありたい と心から思っています… そしてあなたの抱く「戦争」のイメージから
具体的な平和へと繋がっていくことを祈っています…
Comentários